立命館大学 民科政治研究会 Blog

民科政治研究会は立命館大学学術部所属の政治・社会問題研究サークルです。

国際政治班報告

ソマリアPKOに見るアメリカの変遷
年表
1992年 アメリカ(ブッシュ) 第一次国連ソマリア活動へ参加、介入に消極的
1993年 アメリカ(クリントン) 第二次国連ソマリア活動へ積極的に参加
1994年 クリントン大統領 PDD25を発効し、以後のPKO参加要件定める
※PDD25(大統領決定指令第25条)
・参加の意義
① アメリカの国益への貢献
② 重要な国連活動を通じてのアメリカの影響力増
③ 他国が困難な活動についてアメリカの特殊な能力の提

・参加条件
① 国際秩序への脅威、アメリカの国益
② 活動の明確な目的設定、活動の種類を峻別
③ 活動の目的に即した行動
④ 活動を終了させる際の明確な基準設定

Summery
今回取り扱ったソマリアPKO(UNOSOMⅠ・Ⅱ)は、その失敗により、冷戦後のアメリカの対外政策に大きな影響を与えた。今回は、その失敗原因と変化について明らかにすることを目標とし、研究会を行った。
まず、ソマリアでは、1969年に政権の座について以降、エチオピアとの紛争による国力の低下や、民族偏重主義的な政策によって地域格差を引き起こした、シアド・バーレ独裁政権が1991年に反政府勢力によって崩壊させられた。その後、アリ・マハディ派とアイディード派などの武装勢力が権力を争った。1992年、アイディード派とアリ・マハディ派が停戦合意に達したため、国連がPKO派遣を決める。これに対しアメリカ(ブッシュ政権)は、世論を背景にした連邦議会の要請により、PKO参加に消極的ながらも参加した。このため、第一次ソマリア国連活動(UNOSOMⅠ)は、大国の参加の伴った、これまでのPKOとは違った形で実施された。その後、内戦が再発し、国連の活動が停滞したため、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が緊急人道援助のための短期間の限定的介入を行うこととした(UNITAF)。結果、15の武装勢力の間で停戦合意(アジス・アベバ協定)が結ばれた。
しかし、その後も内戦状態が続いたため、国連憲章第7条に基づいた強制措置も行える第二次国連ソマリア活動(UNOSOMⅡ)が派遣された。これはガリ事務総長(当時)の平和執行部隊(PKF)構想の実践であった。本来ならば停戦合意の維持・武装解除を目的としたPKOであるが、このPKOは目的に平和構築・国家再建をも加えられた。これに対し、アメリカ(クリントン)は積極介入へ政策を転換し、UNOSOMⅡに参加した。
そのため、武装勢力間の緊張が高まり、武装勢力による国連ソマリア活動軍への攻撃が行われる。さらには国連側がアイディード派を反政府勢力とみなし、アイディードを攻撃の対象としたため、米軍がアイディード派に対し武力行使を行った。その様子は映画『ブラックホークダウン』で表現されている。結果は、内戦状態を止めることは出来ず、18人以上の死傷者を出し、うち一人の遺体が市街で引きずられる映像をテレビで流されるという事態となった。この結果を受けて、アメリカは軍を撤退させるとともに、PDD25を発効させ、以後のPKO活動に「国益」という制約を課すこととした。
PDD25に記された原則は、ベトナム戦争後、政権内の意見として存在していた。レーガン政権下のワインバーガー国防相の提示した意見の中にも同様のことが含まれている。このことから、ベトナム戦争における反省が、このソマリアへの介入の失敗によって、大きく明文化されたという分析ができた。

6月24日(金)
安保再定義
1994年 北朝鮮、核処理計画発覚
1995年 中国、核実験
1996年3月 中国、台湾海峡で軍事演習
1996年4月 橋本・クリントン会談⇒日米安全保障共同宣言(東京宣言)
1998年 北朝鮮、テポドン発射 日本上空通過後、太平洋へ

Summery
 今回取り扱った安保再定義は、これまでに触れてきた成立から定着までの安保条約がいかに変遷したかに焦点をあて、それを明確にすることを目標に研究会を行った。
 安保再定義は、1996年橋本・クリントン会談時に日米安全保障共同宣言(東京宣言)が結ばれ、冷戦後の日米関係のあるべき姿を形づくることで行われた。この会談および宣言で、具体的には、基地の整理・縮小、アジア・太平洋地域に10万人規模の米軍維持、日米新ガイドラインを策定することなどが決められた。
 この動きは、ソ連の崩壊によって事実上の幕を下ろした東西冷戦後の、新たな協力体制を模索するものであった。そのほか、この再定義に関わる大きな要因として、国際協力の必要性とそれに伴う軍事的協力体制の確立、北朝鮮と中国という新たな脅威の出現が挙げられる。国際協力の必要性については、91年の湾岸戦争協力への反省、92年に制定されたPKO法に基づいたカンボジア自衛隊派遣など、冷戦後の世界情勢の安定化が目指される中、日米両国でも軍事的な相互交流の必要性が増した。また、94年〜96年には北朝鮮や中国の存在が、東アジアに冷戦構造が残っていることを印象付けた。まず94年に北朝鮮の核処理計画が発覚すると、米国・北朝鮮の間で一触即発の事態となった。98年には北朝鮮のミサイルが日本上空を越えて太平洋に落ちるといったように、日本の安全保障に対する「現実の危機」が認識されることとなる。さらに中国については、95年に核実験を行ったこと、96年の台湾総選挙に合わせる形でミサイル演習を行い、台湾独立派へ圧力をかけた。そのため、米国が空母を派遣し、中国を牽制するという行動を取った。こういった東アジアの情勢が、危機管理のための同盟体制の維持という形で現れたといえる。
 また、ナイ・イニシアティブや国防総省の東アジア戦略レビューといったアメリカの対日戦略の変化も、この安保再定義に影響を与えている。ナイ報告(95年)については、現状においてクリントン政権の対日外交が経済重視で進められた結果、経済摩擦を引き起こし、この結果、相互に不信感を抱き、安全保障の協力体制までも揺るがしていると分析し、東アジアの安全保障を維持するために、日米間の協力体制の確立を行うことを提言した。この結果、ナイ報告では東アジアの米軍は「東アジア経済の目覚しい成長を支えるに酸素」のようなものとされた。その後の国防総省の東アジア戦略レビューでは、92年に出された東アジア戦略構想EASIで想定されていた東アジアからの米軍撤退を見直し、今後20年間東アジアに米軍10万人のプレゼンスをおくこと、日米安保条約は東アジア地域における安全保障政策の要であること、米国に日本防衛義務があること、を確認している。
 これらの動きが、日米同盟の意義の再確認と強化に繋がっているといえよう。